明治期の卒業作品を読み解く 知られざる日本画を奮闘記

会期終了日:2016年2月11日

会場:京都市立芸術大学 芸術資料館展示室

会期:2016年2月10日(水)ー14日(日)会期中無休

企画:古田理子(大学院修士課程2回 芸術学専攻)

紀芝蓮(大学院修士課程2回 保存修復専攻)

 text 田島達也

京都市立芸術大学作品展開幕!
この季節、各地の美術系大学の卒業制作展が行われている。今年はある東北の大学で、ものすごいメカを出品した人がネットで賞賛を浴びている。また昨年の東京オリンピックエンブレム問題の際には、某美術大学がとばっちりで非難され、関係ない人の卒業制作まで槍玉にあがるという事態まで起こっている。芸術家(に限らないが)は、何かを作っている限り、隠れて存在していることはできない。ひとたび注目を浴びると、いきなり世界の裏側まで情報が駆け巡る世の中になってしまった。
さて、わが京都市立芸術大学も2月10日から、2月14日まで「作品展」が行われている。卒業制作展ではなく「作品展」。なぜなら卒業生だけでなく、全学年の学生が出品するからだ。小規模な公立大学ならではのシステムといえる。会場は京都市美術館(本館・別館)と西京区にある大学キャンパスの2カ所で行われている。この2つの会場は、車で1時間ほどの距離にあり、両方見るのはなかなか大変だ。京都市美術館の方は、左京区岡崎という、展覧会の本場にあるからいいとして、問題は大学の方。この峠を越えれば丹波国という、国ざかいのぎりぎり京都側にある。なので、よほど美術好きの人以外、ふらっと訪れることはないだろう。しかし、その数少ない各地の「よほどの美術好き」すなわち美術評論家、学芸員、ギャラリストなどがかなりの密度でやってくる。
そんな知る人ぞ知る作品展大学会場、通称「学内展」で今年はとても興味深い展示が行われている。それが「明治期の卒業作品を読み解く 知られざる日本画を奮闘記」展だ。

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会場写真1

企画展「明治期の卒業作品を読み解く 知られざる日本画を奮闘記」
大学には芸術資料館という博物館相当施設があり、大学に関係する美術品・参考品を収集している。その展示室では、通常は所蔵品の展示が行われているのだが、作品展一色になるこの期間は閉館していて例年展示が無かった。今年はこのスペースを生かし、学生による作品展示が行われている。それが明治時代の卒業作品による本展だ。明治29年(1896)から明治38(1905)までの、この大学の前身である京都市立美術工芸学校絵画科卒業生の作品16点が並んでいる。つまり、今、この大学では120年の時を越えた卒業生たちの競演が行われているということになる。
明治13年(1880)に京都府画学校として開校した本学は、日本で最も歴史がある美術大学である。開校後いくどかの組織変更を経て京都市立美術工芸学校となる。画学校時代には上村松園も在学していたのだが、この時期の学生作品は伝わっていない。美術工芸学校となって校舎・組織も安定し卒業作品などの学校関係資料がしっかり保存されるようになった。今回展示されるのは、所蔵される卒業作品の中の初期のものということになる。
この展示を企画したのは大学院修士課程修了生の2人。芸術学専攻の古田理子と保存修復専攻の紀芝蓮だ。古田は近代の日本画を研究対象としており、修士課程では明治時代の卒業作品を悉皆調査し、明治30年代の作風変遷を修士論文のテーマとしている。紀は絵画の材料分析を専門としており、明治30年代の日本画に西洋起源の顔料「亜鉛華」が使用されていることを発見し修士論文とした。調査の時点から共同で行っていたことから、成果発表も共同で、実際の作品を示しながら、修論の内容を資料館の展覧会とすることになった。
修論の内容は、どちらも非常に興味深いもだが、やや専門的なので、詳しいことは展示を見てもらうにしくはない。ここでは、そこに至る前の段階、「昔の卒業作品と現代の卒業作品はずいぶん違うなあ」という素朴な印象から解説していきたい。

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明治の日本画vs平成の日本画
まず、会場の様子を見てみよう。並んでいるのは掛軸だ。当時の美術工芸学校(以下美工と略称)は大雑把にいうと絵画科、彫刻科、図案科、漆工などの科があった。ある程度の人数もいて作品も残っているのは絵画科と図案科。図案科は基本的に工芸や建築装飾のデザインを平面に描いたものを卒業作品とした。絵画科はすべて日本画である。開校当初は洋画の専攻もあり、学生も多かったが途中で廃止になった。洋画が復活するのは昭和の戦後である。
一方、現在の日本画はどうだろう。京都市美術館2階の会場に並んでいるのはすべてパネルで、多くは額装されている。階段をはさんで反対側には油画(本学では洋画・西洋画をこう呼ぶ)の会場があり、こちらはキャンバスを額装したものを中心に、立体や新しい素材を使った作品が並ぶ。雑多な印象の油画に対し、整然とした日本画。会場の印象に違いはあるが、作品一つ一つを見ると、日本画の方に日本的な何かがあるかといわれると、なかなか難しい。そもそも日本的とは何かといわれると難しいのだが、少なくとも明治の日本画のような掛軸というわかりやすさはない。
そこで、せっかく明治の日本画と現代の日本画が並んでいるので、その違いを詳しく見てみよう。

日本画新旧

こうしてみると、明治の日本画にあったわかりやすい「日本らしさ」は現代の日本画にはほとんど無くなっていることがわかる。100号を超す額は普通に考えて伝統的な日本家屋で掛けるのは困難だ。絹に描かれた明治の日本画のしっとりした風合いに対し、現代の日本画はざらざらした絵具が画面全体を覆っている。

西田鳩子《ゆらぐ》

2016年市長賞 日本画4回生 西田鳩子《ゆらぐ》

日本画と岩絵具
戦後からこっちの日本画は、岩絵具のざらざらした質感こそが日本画らしさと受け取られている。近年ではさほどではないが、昭和の後期では砂絵のようなマチエールが主流だった。しかし振り返ってみると、江戸時代以前の日本の絵画では岩絵具の厚塗りは松の葉叢など画面の中で限定的に使われるだけで、しかもざらついた感じはあまりない。どちらかといえばフラットにきれいに塗るのが優れた技術とされていた。そのことは明治に入ってからも大きくは変わらない。ただ、展示されている明治30年代の作品は西洋美術の影響もあり、色のグラデーションをしっかり出そうとしている。そのため、砂っぽいとまではいかないが、粉っぽい画面がしばしば見られる。その意味では、現代に一歩近付く動きがこの頃にあったといえるだろう。
もともと岩絵具は美しい色の鉱物から作るため高価であり、画面を覆うほど大量に使えるようになるのは、新岩絵具と呼ばれる人工の絵具が普及する昭和時代になってからである。だから明治の学生は、使いたくても使えないのだ。彼らが現代の学生の絵を見たら、色の贅沢な使い方に腰を抜かすだろう。

河本魏山《熱風捲砂》

明治34年(1901) 河本魏山《熱風捲砂》

亜鉛華の発見
こうした色の不足を補うため、西洋から輸入された顔料を日本画で使う場合もあった。東京の明治日本画初期の画人狩野芳崖はフェノロサの指導もあって西洋の顔料をかなり使っていることが知られている。では京都ではどうなのか、という点について、従来は本格的な研究がなく、よくわかっていなかった。そこを明らかにしたのが紀芝蓮の研究だ。日本では白色の絵具は主に胡粉という牡蠣の貝殻の粉(主成分はカルシウムCa)を使ってきた。胡粉は薄く塗ることも厚く盛り上げることもでき、染料系の絵具と混ぜて使われることもある。有用な絵具だが膠と合わせるのが難しく、調合が悪いとひび割れや剥落を生じやすい。また水分を含んだ状態では充分発色しないので、乾燥した状態の白さを予測しながら塗ることになる。作品の共同調査をしている際、明治33年の作品に胡粉よりいくぶん冷たい白色を呈する部分があり、蛍光X線分析機で調べると、亜鉛Znが出た。
西洋で近代に生まれた亜鉛華という顔料は膠となじみやすく、白の発色も初めから出ていて使いやすい。作品に即して詳しく調べてみると、胡粉と完全に置き換わったというわけではなく、併用されている。おそらく色味の微妙な違いに注目し、くっきりした白を目立たせたいところに亜鉛華を用いるのが効果的だと考えたようだ。ただ、その使い方は作品によってまちまちで、新しい材料をみんなで研究しながら使っていたとみられる。ただ、その使用は長続きせずまた胡粉だけに戻ってしまう。このあたりの事情は文献がないので詳しくはわかっていない。わかるのはこの頃の学生は、毎年のように新しいことにチャレンジしているという、開拓の精神である。現代では岩絵具を使えるようになることが、伝統絵画である日本画の証しとなっているのは皮肉ことだ。

日本画と線
現代の日本画が色をたくさん使うことで失われたのが、線である。伝統的な東洋画では「骨法用筆」と呼ばれ、墨と筆でしっかりとした形を描き出すことこそが絵画の基本であるとされた。筆による線は単なる輪郭ではなく、その太さや濃さの変化によって陰影や運動感まで表現する。もともと文字も筆で書いていたかつての日本人にとっては当たり前のことだった。だから書道の学習と同様、絵の学習といえばまず先生から与えられるお手本を写して、その形と、その形を生み出す筆の働きを体に叩き込むのが基本。手本を通じた筆墨の学習を運筆といい、美工のカリキュラムでも重要な位置を占めていた。
それに対し、現代の日本画では手本を写すという学習法は重視されてない。古画の模写は皆一度は体験することになっているが、それは昔の人と同じように描くのではなく、見た目を近づけるための別の技術となっている。従って、現代の学生の大半は昔の学生のような抑揚のある水墨の線が描けない。写生はするのだが、それを線に変換する技術がない。だからスケッチの段階では繊細ないい絵が描けていても、岩絵具を塗り込むと埋没してしまう。繊細な絵を実現するためには強い線が必要になるという逆説である。

ロマン主義絵画の影響
力強い線は、日本画らしい良さの一つであるが、目指す画風によっては邪魔になることもある。たとえば霧に煙る風景のような場合。実は明治30年代といえば東京では朦朧体という、輪郭線を排した画風が試みられた時期でもある。京都では大観や春草のような徹底した朦朧体は行われなかったが、やはり若い学生は流行に敏感で、あえて線を描かない技法を取り入れた卒業作品も作られた。今回の出品作ではキリスト風の人物を描いた《荒涼》などは、人物の髪の毛を色のぼかしで表現している。
《荒涼》に代表されるように、明治34年頃には西洋風の画題を描いたものが多く見られる。古田理子によるとこの時期の作品の多くは、西洋のロマン主義絵画を直接・間接に参考にしているという。展示室の中でこのコーナーだけ西洋人のような人物が登場して異彩を放っている。ただ、実際の西洋絵画を知っている現代人から見ると、画題は西洋風だが色調は総じて白っぽい。画題の派手さと色調の地味さがアンバランスになっている。これも古田によると、白黒の図版から色は想像で描いたためこのようになったという。彼らは本物を知らない。その欠落を意欲と伝統技法で補って生まれた異色の作品群といえる。満ち足りた時代より、不足していた時代の方が面白い作品が生まれるのかもしれない。

岡西湖《荒涼》

岡西湖《荒涼》

写生と手本
さらに、一つの場所に安住しないのが明治時代である。明治34〜35年に「ロマン主義期」を駆け抜けたあとバルビゾン派風の農村風景を経て、30年代後期には身近な動植物を描く写生画に回帰する。京都では18世紀後期以降、円山応挙の「写生画」が主流となり、その流れは京都府画学校の初期教員である幸野楳嶺からその弟子で美工や絵画専門学校で長く教鞭を執った竹内栖鳳に受け継がれている。今でも京都の日本画は写生画の流れを汲むといわれ、日本画の学生は写生が京都日本画のアイデンティティーであるといわれて育つ。それは大まかには間違っていないのだが、円山応挙から現代までにはずいぶん紆余曲折がある事を、この展覧会を見て知るべきだろう。
写生画コーナーで古田は興味深い指摘をしている。現代では写生といえば禅の修業の如く、ひたすら対象に向かい合ってその本質をつかみ取ることだと教えられるのだが、この時期の写生画にもまだお手本の痕跡があるという。不動立山の《牛》には2頭の牛が描かれているが、伏している牛の形がバランス良く決まっているのに対し、立っている牛はややその姿に洗練が足りないものを感じる。伏している牛の方は、竹内栖鳳の絵手本に類似しており、ある程度描き方に習熟していたようだ。自ら写生した方は、たどたどしさとともに初々しさがある。手本というものが、学生の作品にどのような影響を与えるかを知る上で非常に興味深い事例だ。

明治38年(1905) 不動立山《牛》

明治38年(1905) 不動立山《牛》

手本は将棋の定跡のように、早く上達するためには欠かせない。手本によって学んできた明治の卒業作品は、大人びた作風に見える。現代の学生は、写生は上手いのだが、そこからどうやって日本画にするのかという段階で停滞している。優れた才能を持ち努力を重ねることができる学生だけがその段階を抜け出すことができる。明治の学生が描いているのは初めから日本画である。しかしそこからどうやって過去の画風を脱して、新時代の日本画を作るのかということに試行錯誤している。

その後の卒業作品
今回の展示は明治30年代で終わっているが、その後の卒業生の歩みを簡単に述べておこう。30年代には努力の割には著名画家をあまり輩出できなかった美工だが、明治42年に上級学校として京都市立絵画専門学校(絵専)が併設された頃から著名な画家を多く生み出すようになる。村上華岳、榊原紫峰、入江波光、甲斐庄楠音、岡本神草など大正期に大活躍する画家たちはみな美工から絵専への進学組であり、土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花らは絵専からの入学組だ。それ以降も美工・絵専は京都の日本画家を輩出する中心的な教育機関となっていった。
作品の形状は、大正期には屏風が増え、昭和には額装が多くなってくる。基底材は大正時代までは絹ばかりだが、昭和から少しずつ紙が増え、昭和10年代で逆転する。画面を絵具で覆い尽くす表現は大正時代から見られ始め、戦後には主流になる。ざっくりいえば戦後の日本画は、現代の日本画とそれほど大きな違いはない。
明治の日本画と現代の日本画、その違いは120年の歴史を通じて徐々に生じてきたというより、明治から50年くらいの間に急速に変化してきたのだということができる。

この機会にぜひ
1室だけの小さな展示室ながら、美術史と保存修復の2つの視点から詳しく作品を解説しており、見応えはある。壁面には明治時代の美工の全卒業作品の写真も飾られており、これを見るだけでも飽きないものがある。明治時代の卒業生は、百年以上あとの後輩によって自分達の作品が詳しく分析されることになるとは想像もしなかったことだろう。開校から136年の歴史を有する本学ならではの企画である。

この企画展の開催されているのは芸大キャンパスで、日本画学生の作品展示は岡崎の京都市美術館。両方を同時に見ることができないのだけは残念だが、この機会にぜひ両会場を回っていただきたい。